無内定無職のタワゴト

140文字以上になるぼんやりとしたこと

Serendipity とは何か

 

セレンディピティserendipity)という言葉がある。

セレンディピティserendipity)とは、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。」by weblio

serendipityとは逆の意味を持つゼンブラニティ(Zemblanity)「不幸や不運にあい、決まりきったことしかできない能力」という言葉もある。

 

このserendipityという言葉と出会ったとき、「あぁ、ときどきあるあれか…」という感じで自分のなかでものすごくしっくりきた。

紙の辞書で分からない言葉を調べているときにそのページにほかの良い言葉をみつけることや、本屋で目的の本の近くで他の良い本をみつけることや、道に迷っている途中で気になる店をみつけることがある。このような状況をつくりだすことが出来るのがserendipityである。

 

自分はserendipityにあまり恵まれていないタイプの人間であり、zemblanityにばかり恵まれてしまっているかのように感じていた。

 

この言葉の指す能力というのは偶然に頼るものであり、偶然の起きやすい状況をつくりだすことによってしか恵まれることが出来ないと思っていたのである。

しかしながら、いくら偶然の起きやすい状況をつくり出しても偶然が実際に起きなければserenndipityに恵まれることが出来ない。偶然を起こすにはどうすればよいのかと考えたとき、観察する力と鋭敏さを鍛えることが必要なのではないかと気がついた。それと同時に自分に落胆した。いったいどれくらいの偶然をなかったことにしてきたのかと。 

もし自分に観察力に優れていたならば、鋭敏さをもっと持ち合わせていたならば、偶然を掴み取れたはずだったのだ。たまたま起こるはずのことをたまたまにしないことが出来たはずだったのだ。

後悔してもどうしようもなく、馬鹿馬鹿しいことを言っているのは分かっている。

 

逆に考えると観察力と鋭敏さを鍛えさえすればserendipityに恵まれて、zemblanityに恵まれない人になることが出来る。

でもその観察力なり鋭敏さを鍛えてアンテナを張るということに自分は力を注ぐことが出来ない。なぜなら三日坊主だからである。それらを鍛えるためにはいろんなものに興味を持つということを持続できなければならない。持続させることが出来ないから観察力や鋭敏さを鍛えることができない。観察力や鋭敏さを鍛えることができないからserendipityに恵まれることができない。負のスパイラルに陥っている。

 

負のスパイラルから抜け出し、正のスパイラルへとむけるにはどうしたらよいのか分かっているはずなのにそれが出来ない。自分はそういうやつなのだ。

これからも自分に落胆していく。

 

ホラー映画のCM

 

怖い話がこわい。

どうしようもなく怖い。

ドキドキして眠れないこともあれば特定の場所に近づけないこともあれば布団から出られないこともあれば人から離れたくなくなることもある。

 

基本的に怖い話に触れるか触れないかは自己責任だ。ホラー小説や小話、都市伝説などはよむか読まないか選ぶことが出来るし、怪談を知人と話すかどうかなどは拒否することが出来る。

しかしながら宣伝の類のものは拒否できない。番組をみている途中に現れるCMやサイトの上下に出る広告やポスターは拒否することが出来ない。しかもそれらは消費者の気を引くために見た瞬間が恐ろしいことが分かるものになっているのだ。

 

精神的ブラクラという言葉がある。これは見た人に精神的な苦痛やショック、不快感 を与える画像や動画、音声データ、サイトなどのことを指す言葉である。

ホラーの類の宣伝はまさにこれである。我々に不快感を与えるために存在しているわけではないとしても、精神的ブラクラと同じような効果がある。というよりも、それそのものだと感じている。

 

怖いから何が起きるのだ、実害はないじゃないか、気にしなければいいとかいう人がいる。それが出来ないから困っているのだ。

 

勝手なことを言っていることは分かっているが、悪意の有無にかかわらず嫌悪感を感じる消費者が多くいることを少しは気にしてほしいなと思う。

晒される写真

 

一般的な人なのにテレビのニュース番組や新聞、ネットニュースに顔写真が晒される人がいる。事件の犯人や被害者などである。

 

事件の犯人の顔が晒されるのは致し方ない。それくらいは分かったうえで事件を起こしているだろうからどうでもいい。

しかし、事件の被害者が写真を晒されるのは納得いかない。何も悪いことはしていないし、事件が起きて自分が被害者になるという事は想像できていない。突然事件の被害者となった上に写真を晒されてしまうことに納得できるのだろうか。自分だったら納得できない。

たとえ死んでいたとしても自分の死後不特定多数の人に顔を晒されたりなどしたくない。しかもその写真は自分で選べない。マスコミが手に入れたいつだかわからないような写真が晒されるのである。変な顔をしているかもしれないし、写りが良くないかもしれないし、卒業アルバムの写真かもしれない。

マスコミは事件の悲惨さや凄惨さ、リアリティを人々に与えるために被害者の写真を公表すると言われている。けれどそれは本当に必要なのだろうか。もし自分が何らかの事件の被害者になり遺書に写真を報道に利用しないでほしいと書いておいたところでその事実は無視され写真は晒されてしまうだろう。

被害者の意思など関係なく晒される写真。写真どころではなく作文が晒されてしまうこともある。被害者にとってなんと屈辱的なことだろうか。幼いころに書いた作文を人にとやかく言われ、写真を晒される。

けしてそこに本人や家族の同意はない。マスコミは時に本人として売られた別人の写真を報道に利用してしまうこともあるほどなのだ。

どうすれば写真が晒されるのを防げるか自分は知らない。

だから時々考える。自分が死んだら誰が自分の写真をマスコミに売ってしまうのだろうか、どんな写真を売るのだろうかと。

 

 

 

ネット依存は悪か

 

ネットに依存していますか?

そう問われたらなんと答えるだろう。

「ネットをしていなくてもネットのことを考えてしまう。ネットの無い生活を想像できない。」そんな感じの項目にいくつかあてはまるとあなたはネット依存ですという診断を受けられるサイトがある。それに心から正直に答えた人に、ネット依存でないと診断される人はさして多くはないだろう。

なぜなら、その診断を受けてみようと考えている時点で自分がネット依存であるという可能性を自分自身も疑っており、そのサイトにたどり着いて診断してしまった時点でネットに依存しているに近い状態なのである。ネットに依存していない人はネット依存について調べてみた段階で自分は違うと判断できるだろうし、ネットを利用してネット依存の診断をするなんてばかばかしいと思うだろう。

 

ひょっとしてネット依存なのかもと思った時点でネット依存という極論のようなことを自分は述べているが、それくらいネットは依存してしまいやすいものなのである。

程度に差はあるものの、パソコンやスマートフォンを手にしている多くの人はネットに依存してしまっているといっても過言ではないと自分は考えている。

 

ネットに依存していても日常生活に支障がでなければ問題ないのではないだろうか。

例えば、Facebookを毎日更新する人がいるとする。更新するために食事をすれば写真を撮り、友達と会えば報告する。その人は日常生活に支障をきたしているだろうか。facebookのことを考えた行動を行っているかもしれないがそれがものすごくおかしなことだとは自分には思えない。食事は毎日するものであるしそこに写真を撮るという行動が加わったところで何か支障が出るとは思えない。友達と会ったことを報告することの何がいけないのだろうか。友人の許可を得ていなければ支障が出るだろうがそうでなければ何も問題はない。

 

そう、ネットへの依存は日常生活への支障がでなければいいのだ。それなのにネットに依存していると簡単に判断されそれが悪かのように扱われることに自分は納得できていない。

ネットへの依存が悪であれば、読書に没頭することも、音楽を常時聴くことも、パソコンを利用することも、間食を好むことも、電気に頼って生活していることも、全て悪なのではないだろうか。

 

たいていの物への依存自体は悪ではない。依存していることを知らないことがいけないのではないかと自分は思う。

だから自分はあえて言う。

どいつもこいつもネット依存。

 

普通という病

 

自分は自分のことを普通の人だと思いながら過ごしている。どこまでいっても特別にはなれないし、ちょっとやそっと変わったことをしたところで普通の範疇から抜け出すことはできない。

自分と同様に特別な存在になれるひとなどほとんどいないし、多くの人は何かを成すことなく死んでいくだろう。

しかしながら、自分はただの普通の人ではなく特別な人間であると思いながら過ごしている人も多くいるだろう。

 

自分は特別だと思っている人の事を自分は表立って否定することはないし、自分を特別だと信じることが何らかの原動力となることは少なくはないだろう。

自分は特別だから人と違う事をしても大丈夫、自分は特別だから他人に迎合する必要はない、自分は特別だから成功する、自分は特別だから何もしなくてもその時が来る。というように自分は特別であるという事を信じて行動している人は少なくない。このように自分は特別だと信じている人のことを自分は羨ましいと思っている。

 

そう、限りなく羨ましいのである。

自分は普通であるという事を一度心の底から信じ込んでしまった為に自分を特別な人間だと思うことが出来なくなってしまった。なにかちょっと変わっているといわれたところで同じような性格の人がいるという事も、同じような学力で、同じような言動をする人がいて、同じような家庭環境の人がいることを知っている。自分はけして特別な存在ではない。

同様に、自分を特別だと信じる人のことを自分は特別な人だと思えない。その他人を特別であるという事を信じることが出来ない。

誰しも特別でなく普通な存在であると信じ込んでしまった自分には特別を原動力にすることが出来ない。特別じゃないから何かを成すことが出来なくても当然だし、失敗しても当たり前だし、なにか特別なチャンスが訪れることはない。そんなふうに思ってしまうのである。

ある意味ネガティブなのである。逆に、特別な不幸も訪れないと信じるポジティブさもあるわけだが。

 

自分の、普通を信じ普通から抜け出せないし抜け出したいと思えなくなってしまうこの病を誰か何とかしてほしい。

 

トラブルと苛立ち

 

京都市圏で電車を利用した生活を送っていると、毎日どこかしらの路線で、車両点検なりお客様トラブルなりで電車が止まったり遅れたりする。自分が使う路線が止まったり遅れたりすると思ったように移動できず予定が消化できないこともある。

時間通りに生活できるという事を当たり前に過ごしているうちに、時間通りに電車が運行してないというだけで困ってしまうようになった。

 

運行停止や遅延の原因となった当該車両に乗り合わせてしまったときは、その原因を理解していることが多くあまりイライラしない。しかし、そうでないときは少しイライラしてしまう。なんだか無関係なのに巻き込まれたように思えるのだ。

 

自分のせいではないのにトラブルに巻き込まれることや、損をしてしまうことは少なくはない。少なくはないからといって無条件に許せるわけでもなければ、イラつかないということもない。

トラブルの原因が判明しており、当事者がしっかり反省していた場合や誰のせいでもなく起ってしまったときはあまりイライラしない。トラブルを起こした当事者が反省していないどころか悪いとも思っていないときはイラつきをとおりこして呆れてしまう。

しかし、原因もわからないのに損害を被ってしまうこともある。このときが最もイライラするように感じる。理不尽なめにあっていると思ってしまう。

 

原因が分かると苛立たしさが減るのはなぜであろうか。

このことについてよく知らない。

 

ところで、自分がトラブルの原因になってしまったときも理不尽さを感じることがある。

思うようにやれという指示に従ったらトラブルの原因になってしまったというようなとき、悪いのは自分だけではないのではないかと思う。指示を聞き間違えていたのであれば完全に自分のせいなので反省するしかない。しかし、相手が丸投げしてきたことによるトラブルは、直後はしばらく反省するがしばらくすると他の人のせいでもあるという理不尽さを感じる。逆に自分が指示をしたことを相手が聞き間違えてトラブルになってしまったときは自分も反省してしまう。

指示をした人とされた人の総反省量を考えていくと、原因がはっきりするときほど多く、原因がはっきりしないときほど少なくなるように思える。

これはいったい何なのだろうか。

やはりよくわからない。

不謹慎と言う不謹慎さ

不謹慎はどこから来るのだろうか。

 

不謹慎とは慎み思慮分別が欠如しているということを指す言葉である。

重大な災害や事故などでたくさんの死傷者が出てしまったとしき、多くのひとを傷つけるような行動をとったとき、少し派手な行動をとったり、被害者に配慮しない行動をしたりすると「不謹慎だ」として叩かれるのである。

 

ここで考えてみてほしい。「不謹慎だ」と言われる行動は本当に不謹慎なのだろうか。

行動している人自身は人のことを配慮して慎み深く行動しているつもりでもひとたび「不謹慎だ」と指摘されてしまえばその行動は「不謹慎だ」という事になってしまうのである。行動している人自身にとっては不謹慎でない。しかし指摘する人にとってはその行動は不謹慎なのである。

では、「不謹慎だ」と指摘する人はどうなのだろうか。「不謹慎だ」と指摘する行動は不謹慎ではないのかと問いたい。人の行動に「不謹慎だ」と言及することは不謹慎ではないのだろうか。人の行動に文句をつけるという事はどう考えても慎み深い行動ではないし、指摘される相手への配慮が足りていないように思われる。

 

不謹慎を指摘される人は「不謹慎だ」

不謹慎を指摘する人は「不謹慎だ」

 

不謹慎が表れるとき、不謹慎を指摘された人と不謹慎を指摘した人の2者が不謹慎なのである。

不謹慎を誰も指摘しなければどうだろうか、どんなに派手な行動をとっていても不謹慎であるという事に本人は気がつかない。そして不謹慎を指摘する人はいない。誰も不謹慎な人はいないということになる。

 

不謹慎を指摘された人は不謹慎だし、指摘した人も不謹慎だ。その不謹慎さを指摘してしまえば指摘した人も不謹慎になってしまう。

不謹慎は巡り巡る。

不謹慎を非難することに何の意味があるのだろうか。