無内定無職のタワゴト

140文字以上になるぼんやりとしたこと

挫折を経験したか

就活で『挫折経験はありますか。またその経験から学んだことはありますか』と聞いてくることがある。

『ざ‐せつ【挫折】[名](スル)仕事や計画などが、中途で失敗しだめになること。また、そのために意欲・気力をなくすこと。』

挫折とは上記のような意味であるが、そもそも自分は計画を立てて行動することがめったにない。そして、途中で意欲がなくなってもやらなくてはならない作業は自分がやるしかないことを知っている。意欲も気力もないのにやらなくてはならないことがどんどん出てくることすらあって、その場合もはや意欲を無くしようがない。やるしかないことは投げ出せないしそれが失敗して取り返しがつかないなんてことは22まで生きてきて一度もなかった。

だいたいなんでも取り返しがついてしまうのだ。やらなくてはならないことで取り返しがつかない状態に陥ってしまったことが多くの人にはあるのだろうか。あるとしたらそれはいったい何なのだろうか。

受験に失敗しても取り返しがつかないなんてことはない。浪人を重ねる形でも違う学校で妥協する形でも取り返すことが出来る。コミュニティ内で人間関係がうまくいかなくなっても違うコミュニティに移ったり気まずくいながらも付き合っていくうちに普通になっていくこともある。恋人にふられたとしても人間はほかにもいるしその人でなくては叶えられないことなんて実はない。

世の中にはだいたい可能な手段やものにあふれている。

こう考えていくと自分は意外とポジティブだなと思えてくる。

自分はいかんともしがたい自分自身の理由により大学を卒業しても就職先がみつかっていない状況である。しかし就職することを諦めてはいないし、就職できなかったところで違う方法で生活していく方法を探るしかないのだ。自分にとってはこれは挫折ではない。なぜなら取り返しがつくからである。

 

取り返しがつくなら挫折ではない。

自分はベースにこの考え方があるのでたんに失敗したくらいでは挫折だと思えない。だから失敗から学んだことがあっても挫折経験から学んだことだと言えない。どうやって挫折から立ち直ったかなんて答えられるわけがない。だって挫折してないのだから。

 

きっと働いて仕事をきちんとしている人は、仕事が途中で駄目になってしまうことがあるのだろう。仕事にはルールがある。仕事をこなすための手段は限られている。

だが、社会で働いていない人間はちょっとやそっとでは挫折できない。むしろマニュアルもルールもきちんと決まっていないなかで生活している身分の人が、様々な手段を講じないうちから物事が失敗したと決めつけて挫折したことにするのはいかがなものだろうか。

 

自分はこう主張する。人事は就活で挫折経験を聞くな。

挫折はそうそう経験できない。取り返しのつく失敗を挫折ととらえて物事を諦めてしまう人間がほしいというのであればいい。そうでないのであれば挫折経験ではなく『失敗をどのように取り返すか』とか『つらかったことをどのように乗り越えましたか』とかを聞いた方がよい。

 

挫折経験を聞かれると毎回こんなことをつらつら考えてしまう。これも無内定である理由の一つなのであろう。