無内定無職のタワゴト

140文字以上になるぼんやりとしたこと

宗教とか占いとか

占いと宗教はとても似ている。

自分にとってはその違いが何なのか分からないくらいである。占いも宗教も信じるものであるし、自分からしてみるとどちらも胡散臭い。しかも、いつ信じ込んでしまうか分からないという恐ろしさも秘めている。

 

「占いは統計、宗教は伝統」などというまとめ方をする人もいるらしいが必ずしもそうではない。この「占いは〇〇、宗教は〇〇」という表現は占いと宗教を別のものとしてとらえている人によく使われる表現で、他にも「占いは傾向、宗教は対策」「占いは迷い向け、宗教は不安向け」「占いは自分を信じるもの、宗教は他人を信じるもの」というようにまとめているのを見たことがある。どれも正しくもあり、間違いでもあると思う。

 

自分は、どちらも人に信じさせ人を動かす便利なツールなのではないかと考えている。宗教も占いも歴史をつくり動かしてきたものだ。卑弥呼は占いで統治していたし、ヨーロッパでは教会が権力を握っていた。人をまとめ動かしていくのに宗教も占いもただただ便利なのである。アリストテレスが「人間はポリス的動物である」と表現したように、人間は社会と関係のなかで生きており、他の人間のことを無視して生きていくことはできない。この他の人間との関係性を形成するひとつのツールが宗教であり占いなのである。宗教や占いには人間を一定の形式にあてはめて生活や行動させるという部分がある。一定の行動様式があれば人間は動かしやすいのである。きっとApple社がiTunesを開発し人々に普及させたように、何者かが宗教や占いをつくり布教したのだ。

 

現実としてはそこまで単純なものではないだろうし、ある種の陰謀論のようでもあるが、宗教や占いには人間を便利に動かすという側面は少なからずあるだろう。

 

宗教や占いを否定しているわけではない。自分は宗教や占いを自覚的に信仰していないが、それらを基に形成された社会の中で生きている。例えば死体の処理方法であったり、食事の際の挨拶であったり、地域の祭りであったり、無自覚に受け入れている。多くの人がそれを受け入れてなければ死体はそこらに放置されたり川に流されたり食べたりしているかもしれない。今やある種のルールとなっているものをルールたらしめたのは宗教や占いなのではないだろうか。

 

それでもやはり宗教や占いは胡散臭いと感じるし、信じている自覚なくそれらに乗っかってしまっている。

いつか無自覚に利用しているはずが、自覚的に利用するようになり依存してしまう日が来るかもしれない。