無内定無職のタワゴト

140文字以上になるぼんやりとしたこと

壊れかけは使用不可能か

壊れかけているものを使用可能か不可能かを決めるのは誰だろうか。

ひとつの音だけ鳴らないピアノ、欠けてしまった食器、冷たくならないエアコン、ネジ穴のなくなったネジ。壊れかけといえば壊れかけだし、既に壊れているといえば壊れていることになる。

壊れかけていることと壊れていることの境目がどこかわからないし、使用可能と使用不可能の境目もはっきりしない。

たとえ1音出なくてもその音以外しか使わない曲ならピアノは使用可能だし、食器は欠けても食事を盛ることはできるし、冷たくならなくても暖かく出来たらエアコンを冬に使えるし、ネジ穴がなくても外したり締めたりできないだけでとめておくことはできる。
けれど全ての音が必要な曲を弾くことはできないので1音出ないピアノは使用不可能だということもできる。食器は欠けたものは人に出さないし、夏場の暖房のみのエアコンはポンコツだ。ネジ穴がないネジは外すことも締めることもできないのでたちが悪い。

使用用途が本来のものから狭まっているとき、モノは使用可能と使用不可能の境目をぼんやりとさ迷っている気がする。

白黒ハッキリさせたい人は、壊れかけは捨ててしまえと思うだろう。
しかし、壊れかけは完全に壊れてしまっているわけではない。そして壊れてしまう方向に向かってはいるが壊れていない状態に修復できることもある。

壊れかけは場合によっては使用可能だ。
その場合を決めるのはモノの持ち主であろう。
持ち主は使用可能な場合を用意することもしないこともできる。

徳永英明は音を出すことのできない置物と化したradioに本当の幸せを教えてと語りかける。これもまた壊れかけたものを使用可能にした場合を用意したといえるだろう。

壊れかけは使用可能か不可能かをモノ自身には決められない。それはモノにとって不幸なことなのだろうか。

コンテンツ消費LIFE

物事をじっくり楽しめているだろうか。

自分は音楽を本を漫画をアニメを消費している。堪能してない。消費している。
食事のように必要だから接種しているわけではなく、娯楽的に楽しんでいたはずなのに、いつの間にか義務に近い感覚で消費している。

ひとつの作品を何度も何度も見返し読み返し聴き返していた頃もあったろうに、何故か今はひとつの作品をじっくり味わう気にならない。
これは飽きなのだろうか。最近新しく作品を読んでも新鮮さを感じない。ざらざらとぼんやりと消費しすぎて麻痺してきたのだろうか。
ひとつのものをじっくり考察し執着することを今の自分は欲している。ものが溢れてしまっているが為に何がよいか何がよくないか分からなくなってしまっているのは自分だけであろうか。

多様化といえば聞こえはいいかもしれないが、自分は今多様化に溺れている気がする。

いくら作品が増えてもパターンは変わらないということが多々あって、同じ様なものを前にもみたというきがしてくる。テンプレート化されたストーリーにテンプレート化された表現。何が違うか判別できない自分は溺れているだけしかないのだろうか。

浅く広くコンテンツと付き合ってきた自分にツケが回ってきているのかもしれない。
コンテンツに楽しくなくても消費しろと迫られている気がしてならない。

欣喜雀躍したことあるか

四字熟語辞典をぼんやり眺めたことはあるだろうか。
自分はときどき読みたい本が思い浮かばないとき、図書館や書店でぼんやりと眺めることがある。
眺めたことがないひとはwebで四字熟語を検索してみてもいいかもしれない。

みたこともきいたこともない四字熟語が世の中には溢れるほどにある。
知っていれば使う機会がありそうなのに皆が使わないから使うに使えない四字熟語。四字熟語をたくさん知っているとひけらかすことになりそうで使えない四字熟語。漢字が難しくて読めない四字熟語。そんな四字熟語にふれ合う度に自分はここには形にならなかった過去があるのではないかと。


そんなことはどうでもいい。

今は欣喜雀躍の話をしたい。
「欣喜雀躍(きんきじゃくやく)…小躍りするほど大喜びをすること。▽「欣」「喜」はともに喜ぶ意。「雀躍」は雀すずめがぴょんぴょんと跳ね行くように喜ぶこと。」

みなさんはこの欣喜雀躍した記憶があるだろうか。
自分はこれといって心当たりがない。なにかによろこんだことはある。大喜びしたことはあるだろうか。思い当らない。なぜ思い当らないのかさっぱりわからない。
この言葉の類語に有頂天外、歓天喜地、狂喜乱舞、手舞足踏といったそれはもう大喜びしている意味の言葉があるが、この大喜びを普通の人はしたことがあるのだろうか。

何に大喜びすればいいのかと考えてみると試験合格、告白などではないかと思いつくのだが、自分にあてはめてみると喜ばなかったとはいわないが大喜びしたといえないなと思う。

人生二十数年生きているが大喜びしたことが思い当らないなんて自分はさみしいやつだなとしみじみ思ってしまった。
誰でもいいので大喜びをください。

ツンデレフィルターの恐怖

Wikipediaさんはツンデレのことを“特定の人間関係において敵対的な態度(ツンツン)と過度に好意的な態度(デレデレ)の両面を持つ様子、又はそうした人物を指す。”と説明しているが、自分はツンデレには以下の3つの種類があると考えている。

①一般的な人にはツンだが好意を持った相手にはデレ
②人前ではツンだが好意を持った相手と二人のときはデレ
③ツンの態度しかとらないがデレが透けてみえる

①についてはあからさまに人により接する態度が変わるので嫌われやすいタイプなのではと思う。そして好意を持たれている相手側も相手が自分のことを好意的だとはっきり分かる。正直お互いに好意的でない場合周囲も巻き込んで面倒なことになるだろう。

②については二人きりの時のみデレてくるので場合によっては当事者以外の人は気がつかないこともあるだろう。付き合ってるのを隠す一般的なカップルに多いのではないだろうか。好意を持たれている相手側がツンデレさんを好きではなく拒絶しても周囲が気まずくなりにくく面倒を避けることが可能になる。

③はツンデレフィルターをかけている人が察知するツンデレだ。何を言ってもツンデレだから恥ずかしがってるだけ、本音を言えないだけと解釈することによってたとえ自分に好意のない人をもツンデレなので好意的だと思い込むことができる。何もしなければ誰にも害がないが、ツンデレという勘違いのもと行動を起こしてしまった場合は被害者をどこまでも増やすことができてしまう。

③で出てくるツンデレフィルターとはなんでもかんでもツンデレ発言ツンデレ行動に変換して受けとることのできるフィルターである。

ツンデレフィルターにかかればどんな発言も好意的解釈ができる。
興味ない→興味あるけど恥ずかしくて言えない…
ブス→素敵だと思ってるなんて言えない…
やめて下さい→やめてほしくない…
バカ→照れ隠し
話かけるな→ドキドキして話せない…
ついてくるな→隣を歩くなんてまだむり…

例をいつくか挙げてみたがひどいものである。明らかに好意的でない発言も好意的に解釈できてしまう。
全く好かれていない相手をツンデレフィルター越しにみてしまうと悲惨以外のなにものでもない。好意を前提に何らかの行動を起こしてしまうとどんどん関係性が悪化していくに違いない。

きっとストーカーと化してしまう人の中には間違ったツンデレフィルターを使ってしまっている人もいることだ ろう。なんと恐ろしいことかツンデレフィルター…。

しかし、ツンデレフィルターは使いようによっては物凄く便利だ。
嫌われている人の話をきくとき、わけもなく叱られているとき、何故か人に避けられるとき、その瞬間だけツンデレフィルターを利用することによって辛いという気持ちを和らげることができる。

ツンデレフィルターは適度に使うのがおすすめである。

犬の気持ち

犬は何を考えているのだろうか。

考えてみても自分に分かるわけはないのだが、ときどき無性に気になることがある。
電車で鞄に入れられているとき、リードに繋がれ散歩をしているとき、ドアに体当たりしているとき、柵の前を通る人に吠えかかるとき、飼い主に撫でられているとき、犬は何を考えているのだろうか。

犬の鳴き声を翻訳するバウリンガルというものがあるらしいがどれ程の精度なのか知らないし、分かったところでどうしようもない。自分は何かをしてあげたり態度を変える気はない。
けれども犬が何を考えているのだろうかと気になるのである。

まあ、犬に限らず猫にも魚にも同じようなことを思う。

ペットは家族と言っている飼い主のことをどう考えているのだろうか。餌をくれる飼い主。ケージに、鞄に、我が物顔で入れる飼い主。服を着せる飼い主。外に紐でつないで外出する飼い主。こんな飼い主のことをペット側は家族だと認識できているのであろうか。

人間の一方的な家族という認識に対応する認識がペット側にあるのだろうか。

人間が人間をペットとして飼っているのであれば意志疎通は可能だし、自分がその立場だったらという想像をすることもできる。しかし、ペットは人間ではない。言語で意志疎通のできない、異なる生態をもった生き物だ。

人間とは全く違う生き物に家族という枠を与え養う人間とその養われている生き物。動物として疑問を抱くことはないのだろうか。

考えていくとキリがない。
なんとなく、ペットを飼う人にこんな話はできないなと思う。

ビニール傘の間違った利用法

天気予報が嘘をつき突然雨が降りだして困ることはないだろうか。そんなときにビニール傘を購入して利用することもあるだろう。

ビニール傘は手頃な価格と透明なビニール生地が特徴であると言えるが、なぜか無くなったり壊れたりしやすいのも特徴だと思う。

最近では模様のプリントされてあるビニール傘も増えてきているがやはりビニール傘といえば透明であろう。
白い取っ手に透明なビニール生地、ビニール傘はやたらと見分けがつかない。そして、使っている側の人間もビニール傘をあまり気にかけない。その為にビニール傘はよく無くしたり、盗まれてしまったりしやすいのである。
壊れやすいのはビニール傘は少し強度が足りないということもあるが、持ち主がビニール傘を大切にしないというのもある。どうせビニール傘だしという意識のもと扱いが粗雑になってしまうのだ。ビニール傘だからこそ少し丁寧に扱わなくてはならないのに。

ビニール傘の多くは似ているし粗雑に扱われる。当然といえば当然なのであろう。

だからと言ってわざと壊すのはおかしいのではないだろうか。

自分は台風や大雨、風の強い日にビニール傘をさして中継するリポーターが傘が壊れてしまう様子をうれしげにリポートすることを腹立たしく思っている。

風が強いけど濡れたくないとビニール傘を使い壊れてしまうのであれば理解できる。しかし、風が強いことを伝えるためにビニール傘を利用するというのは理解に苦しむ。
台風のニュースではビニール傘が風に煽られて壊れていく様子を映すという決まりでもあるかのようにビニール傘をわざと壊す。
雨風が強いこと知りカッパを着て長靴を履いたリポーターにビニール傘が必要だとは思えない。

ビニール傘が壊れていく様子を映す以外に雨風が強いことを伝える方法がないわけがない。

天気のニュース番組を制作している人はこんな手垢のつきまくった表現に満足しているのだろうか。

暑さは人を殺す

熱波が一週間以上続くせいでインドでは死者が1100人以上もでているらしい。
人間は恒温動物なので程度を越えた暑さにも寒さにも耐えられない。人間が人間である以上どうしようもないことである。だが、インドの熱波により亡くなった人の多くは路上生活者や外での労働をしている人だという。それらの人たちはクーラーや扇風機により室温を調整されている室内にいた場合は永遠の眠りにつくことはなかったのである。

人間は恒温動物であり脆弱な為、自分を環境に合わせるのではなく環境を自分に合わせ生き延びていくという手段を追求し発見していった。
つまり、生き延びる手段を発見し行使できないときには滅ぶしかないのではないだろうか。

前置きはさておき、自分は暑い夏を苦手としている。

暑くても脱げる服には限界があるし、汗がだらだらと出てくるのは不快でしかない。海に行ってマリンスポーツを楽しみたいという気持ちもバーベキューに興じたいという気持ちも夏フェスで盛り上がりたいという気持ちも一切生じない。夏に楽しみなことはクーラーがよくきいた部屋でお昼寝することくらいである。
夏に友達と一緒に浴衣を着てお祭りに行って花火をみるというイベントは一度くらいは経験してみたかったが、誘ってくれる人がいない。どうしようもない。

夏を楽しむには外に出て遊ぶというアクティブさと友達か恋人がいるという社交性が必要とされている気がする。
それに対して冬はウインタースポーツを楽しむ人を除いて、友達が沢山いるタイプの人も室内で過ごすということが一般的なのではないだろうか。

自分は夏は引きこもりがちなので、同じようにみんなもっと夏に室内で遊べばよいのにと思っている。
いや、本当はそんなこと思っていない。

実をいうと暑さを排除して夏を夏らしく楽しみたいという気持ちでいっぱいであり、その手段を求めている。
夏はもうすぐそこなのに今年もよい手段がみつからない。夏は待ってはくれない。自分は焦っている。