無内定無職のタワゴト

140文字以上になるぼんやりとしたこと

選択肢のないプロポーズ

なんだかよくわからないが、フラッシュモブでプロポーズをするという企画を行っている会社があるらしい。

 

フラッシュモブというのは人々が申し合わせて雑踏の中の歩行者として通りすがりを装って公共の場所に集まり突然パフォーマンスを行い、周囲の関心を引き、目的を達成したら解散する行為のことを指すようだ。Youtubeにいくつかあがっているのを見てみたが、やっている人は楽しいんだろうなという感じである。

 

このフラッシュモブでプロポーズするというのはいったいなんなのだろうか。

多数の人の注目を浴びるというリスクを冒すことで相手にプロポーズを断られにくくなると考えているのだろうか、こんなに人に協力してもらってプロポーズできるという人間性をアピールしているのだろうか、あまりない状況をつくりだし一生の思い出にしようとしているのだろうか、プロポーズのために努力したということを示したいのだろうか。

自分はフラッシュモブに出くわしたこともなければフラッシュモブでプロポーズしたこともない。したいとも思わないしされたくもない。仲がいい人にやりたいから手伝ってくれと言われればきっと手伝うだろう。それはなんかおもしろそうだからである。自分が当事者でなければ、なんか面白そうなことがあれば協力してもいいなと思うのである。

 

やるひとはなんだかおもしろそうと思ったり楽しいと思ったり金銭的報酬が無ければやらない。やるかやらないかの選択肢が用意されているのでフラッシュモブをやる人のことはどうでもいい。しかし、そのプロポーズをされる側の相手はどうだろうか、プロポーズは基本的に事前の予告なく行うものであるため、プロポーズをされるかされないかを選ぶことが出来ないのである。唐突に周囲の注目を浴び、プロポーズを受けるかうけないかの選択を強いられることを受け入れられる人はそれほど多くないのではないかと思う。むしろそれが原因で断られる可能性もなくはない。

 

やる側がいいアイディアだとか楽しそうだと思ったことを実行するときはやられる側がどう人間なのか十分に配慮しなくてはならない。

 

自分はどうしてそんなことをしようと思うのかさっぱり理解できない。

 

 

睡眠中毒

自分は睡眠が大好きだ。

大好きだからなのか必要だからしているのか分からなくなってしまうことがしばしばあるが、人間は何時間睡眠をとらなくてはいけないとかっちり決まっているわけではないので区別できたところであまり意味はないだろう。これ以上の睡眠は必要ないのでしませんとかここからは娯楽のために睡眠しますという選択をいつもいつもできるわけではないのだ。

 

ところで、自分は睡眠のどの要素が好きなのだろうか。睡眠が好きだといっても睡眠しているとき自体は意識がないので楽しんでいるかどうか分からない。もはや意識がないことが好きだと思われても仕方がないくらいである。自分は夢をあまり見ることはないし、見たとしてもいわゆる悪夢と言われるようなものばかりである。悪夢を見るのは何も楽しくない。では睡眠によって得られるものが好きなのだろうかとも考えたが、そうではない。睡眠後に楽しいわけではない。そこで考えられるのは睡眠に入る直前が好きだということである。これから寝るぞと意識しているとき、うとうとしているとき、このときが一番楽しいのである。楽しいという表現を今まで使ってきたが実は楽しいわけではない。むしろ気持ちいいのである。

 

自分は睡眠そのものが好きなわけではない、あたたかい布団の中で、がたんごとん揺れる電車の中で、机に向かって、うとうとする時間に感じるふわふわとした気持ち良さが好きなのである。

 

しかしこの睡眠前の気持ち良さをいつでも味わえるわけではない。睡眠に入ってしまうと意識がないことで味わえなくなるし、いざ寝ようと思っても全くもって眠くないときもあるし、疲れ切った時はうとうとするひまなく睡眠に陥ってしまう。

うとうとしている状況をつくり出して睡眠につかせないという機械があれば自分はその機会の虜になってしまうことだろう。

 

寝たいのに寝たくない。そういう睡眠が大好きだ。

宗教とか占いとか

占いと宗教はとても似ている。

自分にとってはその違いが何なのか分からないくらいである。占いも宗教も信じるものであるし、自分からしてみるとどちらも胡散臭い。しかも、いつ信じ込んでしまうか分からないという恐ろしさも秘めている。

 

「占いは統計、宗教は伝統」などというまとめ方をする人もいるらしいが必ずしもそうではない。この「占いは〇〇、宗教は〇〇」という表現は占いと宗教を別のものとしてとらえている人によく使われる表現で、他にも「占いは傾向、宗教は対策」「占いは迷い向け、宗教は不安向け」「占いは自分を信じるもの、宗教は他人を信じるもの」というようにまとめているのを見たことがある。どれも正しくもあり、間違いでもあると思う。

 

自分は、どちらも人に信じさせ人を動かす便利なツールなのではないかと考えている。宗教も占いも歴史をつくり動かしてきたものだ。卑弥呼は占いで統治していたし、ヨーロッパでは教会が権力を握っていた。人をまとめ動かしていくのに宗教も占いもただただ便利なのである。アリストテレスが「人間はポリス的動物である」と表現したように、人間は社会と関係のなかで生きており、他の人間のことを無視して生きていくことはできない。この他の人間との関係性を形成するひとつのツールが宗教であり占いなのである。宗教や占いには人間を一定の形式にあてはめて生活や行動させるという部分がある。一定の行動様式があれば人間は動かしやすいのである。きっとApple社がiTunesを開発し人々に普及させたように、何者かが宗教や占いをつくり布教したのだ。

 

現実としてはそこまで単純なものではないだろうし、ある種の陰謀論のようでもあるが、宗教や占いには人間を便利に動かすという側面は少なからずあるだろう。

 

宗教や占いを否定しているわけではない。自分は宗教や占いを自覚的に信仰していないが、それらを基に形成された社会の中で生きている。例えば死体の処理方法であったり、食事の際の挨拶であったり、地域の祭りであったり、無自覚に受け入れている。多くの人がそれを受け入れてなければ死体はそこらに放置されたり川に流されたり食べたりしているかもしれない。今やある種のルールとなっているものをルールたらしめたのは宗教や占いなのではないだろうか。

 

それでもやはり宗教や占いは胡散臭いと感じるし、信じている自覚なくそれらに乗っかってしまっている。

いつか無自覚に利用しているはずが、自覚的に利用するようになり依存してしまう日が来るかもしれない。

 

喫茶店

 

 ストローをがじがじと噛む、ストローで氷をからからと回す。グラスに露がついているのをみながら、彼女は退屈しているのだと僕は思った。そもそも彼女は僕の知人ではないし名前も知らない。彼女もそうであろう。

 僕が喫茶店に入ったのはおおよそ1時間半前だ。その時既に彼女はこの料理の美味しくないほどほどの飲み物と雰囲気だけが売りのしょうもない喫茶店にいた。シルバーの眼鏡に薄い唇、紺のブラウスに黒いスカート。紙のカバーのかかった文庫本に視線を落とし、時折はらりと音を立てながらページをめくる。白い陶器のカップにはコーヒーが入っているのだろう。特に注目する所はないが、隣の席に座った僕はなんともなしに彼女を観察していた。彼女の向かいは空席だが、僕の前には特に仲良くもない友人がいた。料理と飲み物を注文するところから、その友人と取るに足らない話をしながら食事を終え、机に飲み物だけが残される状態になるまで彼女は一度もこちらを見なかったように思われる。その間に彼女は文庫本を読み終え、店のラックからファッション雑誌を持ち出しそれに視線を落としていた。

 状況が変わったのはそこからである。特に仲良くもないその友人が僕に相談を持ちかけてきたのである。恋人と同棲することになったがその資金が足りないので金を貸してくれないかというような内容である。僕はこの友人の恋人を知っている。つい最近までデートやキスをするような関係であった。そして彼氏と同棲を始めるという話も聞いていた。そろそろ潮時だから僕に会うのをやめると言ってきた彼女に何と言ったかは覚えていないが、引きとめる理由もなくそれを了承したことだけは覚えている。

「いくら足りない。」

「5万。」

こいつに貸すには少し額が大きいと感じた。こいつが貸した金を返さないような人間でないことは知っているがあまり仲が良いわけではない。何故自分に頼んでくるのかも不思議である。

「給料日が来たら必ず返す。他の誰にも借りてないから絶対に、真っ先に、返しに行くから。」

駄目押しとばかりに言ってくる。なおのこと不思議である。何故、僕なのか。

「どうして僕なんだ。」

「俺の事どうでもいいと思ってそうだから、いいかなと思って。」

ぼそっと、だが聞き取れるように答えた。その通りだ。確かにぼくはこいつのことをどうでもいいと思ってる。自分の事をどうでもいいと思っているのなら、金の貸し借りで気まずくなってもかまわないと考えているのだろう。馬鹿正直なやつだと思った。

「時間はあるか。」

「しばらく予定はない。」

「10分そのまま待っていろ。」

説明もせずにそいつを置いて鞄を持って店を出た。

 喫茶店から徒歩3分のアパートに戻り、金と朱肉と紙とペンを鞄に入れ、店に戻った。僕は友人の前の席に再度ついて飲み物をよけ、紙とペンを差し出して言った。

「金を貸してやるからここの代金を奢れ」

「本当か?」

「本当だ。」

「この紙に何か書けばいいの?」

「そうだ。」

「わかった。」

そう答えた友人に書く内容を指示しながら朱肉を取り出して机に置いた。

「印鑑がないなら拇印でいい。」

素直にそれに従い拇印を押し、指をティッシュで拭いながらこちらをみてくる友人に、封筒に入った金を差し出した。

「確認しろ。」

そう言い確認させている間に、そいつの書いた借用書を確認しファイルに入れしまった。

「ありがとう。」

こいつは本当に馬鹿なのかと思った。

「ちゃんと返せよ。あとここ奢れよ。」

「わかってるよ。今払ってくる。」

そう言って席を立った友人を見送り、自分は椅子の背にもたれてなんともなしに彼女の方を見た。彼女もこちらを見ていた。反射的に視線を逸らし、彼女のテーブルの上にある飲み物が変わっていること認識し、再度彼女の方を見た。彼女はもうこちらを見ていなかった。

 僕が家に戻っている間に友人が頼んだであろうアイスコーヒーがきたので無断でそれに手を付けていると友人が戻ってきた。席にはつかない。

「ちゃんと会計済ませてきたよ。店員に言っといたからそのコーヒー飲み終わったら何も言わずに店でて平気だから。」

「ありがとう。」

「彼女に資金なんとかなったって伝えたいからもう行くね。」

「わかった。」

そう言って鞄を持ち店を出ていく。薄情なやつだとか金だけが目当てかとか思ったが、文句をつけずに見送った。

 とりあえずコーヒーを飲むかとなんとなしにストローで氷をからから回していたら、隣の席からも同じ音が聞こえてきた。さりげなく彼女の行動を見守る。ストローを噛み、氷をからから回し退屈そうにしている彼女をしばらく見ていた。僕はいつの間にか彼女のほうをしっかりと見つめてしまっていたようで彼女と視線を合わせてしまった。そのまま視線を逸らさずにいたら、彼女は声をかけてきた。

「どうかした?」

「どうもしない。ちょっとぼんやりしていただけだ。」

嘘はついていない。ぼんやりみていたらいつの間にかしっかり見つめてしまっていただけだ。

「暇なら話をしない?」

よっぽど退屈していたのであろうか、思いがけない誘いを受ける。

「かまわないよ。」

僕が答えると彼女はグラスも荷物もそのままに僕の前の席に移ってきた。

「あなたは金額に手を加えるつもりなの?」

「そうだ。」

一部始終をしっかりを聞いたうえで、僕が借用書に手を加えてしまおうかと考えているのに気がついていたようだ。

「さっきの人は馬鹿なの?それとも貴方を信用しているの?」

「きっと馬鹿のほうだ。」

「そう。」

「君はどれくらいここにいるんだ?」

「三時間くらい。」

「何故?」

「ちょとした嫌がらせかな。」

悪戯をたくらんでいる子供のような顔でふふっと笑う。

「今からここに彼氏を呼んで別れ話をするの。それから別れ話が終わったら彼を置いて店を出ちゃうの。」

「なるほど。」

なんてくだらない嫌がらせだろう。その為に三時間もここに居座り続けたとは彼女はよっぽど他にすることがなかったのだろう。

「お願いがあるの。」

「どんな?」

「彼氏のふりして私を連れ出してくれない?」

「いいよ。」

僕は後々面倒になるかもしれない彼女のお願いを嫌がることなく了承した。それは僕が退屈していたからなのか彼女を気に入り始めているからかは分からなかったが気にならなかった。

「本当に?」

「本当だ。」

「じゃあ別れ話がひと段落したら飲み物の氷をからから言わせるから私の彼氏を無言で睨み付けて私を連れ出してね。」

「分かった。どこまで連れ出したらいい?」

「どこでもいいよ。」

「そうか。もし君の彼氏が会計を無視して追ってきたらどうする。」

「追ってこなくなるまで連れて逃げて。」

「分かった。」

「じゃあ彼を呼びだすね。」

彼女はそう言って元の席に戻り、電話をかけ始める。

そんな彼女を見ながら、僕はこれからのことに少し期待していた。

三日坊主のやめ方

 

自分は間違いなく三日坊主である。飽きっぽくて物事が続きしない。

お小遣い帳も日記も続けることが出来なかったし、毎日勉強することもできないし、このブログも1日1記事を続けられていない。(このブロづはときどきまとめて書いてつじつま合わせをしている)

 

よくある三日坊主をやめる方法に以下のようなものがある

・3日しかできてないではなく3日もできたと考える

・目標を達成しやすいものにする

・結果を数値としてとらえて記録する

・区切りごとに自分にご褒美をあげる

これらが出来ないから三日坊主なのである。これらを実行していけるのであればそもそも三日坊主になんかなってないのだ。これで克服できる人は真の三日坊主ではない。

 

ではなぜ三日坊主になってしまうのかと考えると続けても楽しくないからとか続けるのがめんどくさいとかそんなかんじである。

逆に考えると楽しければ続けられるし面倒だと感じなければ続けられる。実際のところ自分を三日坊主だと思っている人でも毎日ソシャゲやツイッタ―を続けているし、自分も平日は2355を視聴している。いつのまにやら続くようになってしまうと三日坊主とかもう関係ない。続けている意識なく続いている。

そういうのじゃなくて楽しくなくても面倒でも続けられるようになりたいのになれないから困っていると言われてしまえば元も子もない。そういうものは続けられないから三日坊主なのである。

 

そんな三日坊主が楽しくなくても面倒でも続けていることがある。それは食事や睡眠、仕事や通学である。

食事や睡眠は生理的欲求があるためやめることはできないしやめるとしっぺ返しが来る。仕事や通学は生活していくうえでやらないわけにはいかなかったり、将来を見越してやったほうがいいと思いしていることである。

つまり、必要に駆られると続けざるを得ない、続けることが出来るのである。

 

三日坊主が物事を続けられないのは実は自分の中で必要だと思ってないからではないだろうか。必要ないから続けられない続けられないから無いから必要ないという悪循環もひとたび必要だと認識することが出来れば、必要だから続けるに切り替えていくことが出来るだろう。

そもそも続けたいと思っていることは本当に必要だろうか。

 

と、いうようにこうごちゃごちゃ考えても三日坊主をやめることが出来ない。

三日坊主が三日坊主を簡単にかつ確実にやめる方法があるなら自分も知りたいところである。

 

家に帰りたいと家で思う

 

家に居るのに家に帰りたいと思うことがよくある。

家のリビングで、自室で、布団のなかでふと思う。「家に帰りたい」と。

外出中に家に帰りたいと思うのであればまだ分かる。しかし家の中で家に帰りたいと思うのはおかしなことではないだろうか。家に帰っている状態なのにその状態でさらに家に帰るというのは不可能な話である。外出していないと家には帰れないのだ。

 

そこで考えられるのは家は一つではないということだ。

自分は以下のような3つの家があるのではないかと考えた。

家A:日常的に寝たり起きたり食事をしたりする建物

家B:家族や恋人、それに類するひとのいる場所

家C:よい精神状態になれる場所

 

家Aは普段外にいて帰りたいと思う場所であろう。仕事で疲れたり嫌なことがあったときにとりあえず帰りたいと思うだろう。他の家と比べて比較的帰りやすい場所である。

家Bはなんだかさみしさを感じた時に帰りたいと思う場所であろう。ひとりぼっちでいるとき、疎外感を感じているとき、なつかしくなったときに帰りたいと思うだろう。家A=家Bというひともいるだろうが、家Aよりはやや帰りにくい場所である。

家Cは精神が不安定になった時に帰りたいと思う場所であろう。漠然とした不安感に襲われたとき、自己嫌悪に陥ったとき、理由もなくつらくなったときなどの帰りたいと思うだろう。残念ながらこの家Cははっきりとした場所があるわけではないため帰ることはなかなかに難しい。どこにもないかもしれない。もはや家と呼んでいいかすらもわからない。

 

ところで、『帰る』とはどういうことだろうかと考えたとき、『帰る』には自分の家やもといた場所に戻るという意味以外にも、今いる場所を離れて去るという意味もある。今いる場所を離れるというのであれば外出していなくてもできる。家にいても帰ることが出来る。

しかし、家に居ながらにして家という場所から離れて家という場所に行く為にはやはり家は3つあるという考えを用いたほうが分かりやすいだろう。

 

つまり、「家に帰りたい」という言葉には、今いる場所から離れて3つの家のいずれかに行きたいという意味があるのだ。

こう考えると家Aにいるときに「家(B)に帰りたい」と思うのも、家Bにいるときに「家(C)に帰りたい」と思うのもなんらおかしなことはない。

 

実現可能かはさておき、家にいて「家に帰りたい」と思うのは矛盾していない。

だいたいそんな感じなのだ。

 

あゝ、家に帰りたい。

挫折を経験したか

就活で『挫折経験はありますか。またその経験から学んだことはありますか』と聞いてくることがある。

『ざ‐せつ【挫折】[名](スル)仕事や計画などが、中途で失敗しだめになること。また、そのために意欲・気力をなくすこと。』

挫折とは上記のような意味であるが、そもそも自分は計画を立てて行動することがめったにない。そして、途中で意欲がなくなってもやらなくてはならない作業は自分がやるしかないことを知っている。意欲も気力もないのにやらなくてはならないことがどんどん出てくることすらあって、その場合もはや意欲を無くしようがない。やるしかないことは投げ出せないしそれが失敗して取り返しがつかないなんてことは22まで生きてきて一度もなかった。

だいたいなんでも取り返しがついてしまうのだ。やらなくてはならないことで取り返しがつかない状態に陥ってしまったことが多くの人にはあるのだろうか。あるとしたらそれはいったい何なのだろうか。

受験に失敗しても取り返しがつかないなんてことはない。浪人を重ねる形でも違う学校で妥協する形でも取り返すことが出来る。コミュニティ内で人間関係がうまくいかなくなっても違うコミュニティに移ったり気まずくいながらも付き合っていくうちに普通になっていくこともある。恋人にふられたとしても人間はほかにもいるしその人でなくては叶えられないことなんて実はない。

世の中にはだいたい可能な手段やものにあふれている。

こう考えていくと自分は意外とポジティブだなと思えてくる。

自分はいかんともしがたい自分自身の理由により大学を卒業しても就職先がみつかっていない状況である。しかし就職することを諦めてはいないし、就職できなかったところで違う方法で生活していく方法を探るしかないのだ。自分にとってはこれは挫折ではない。なぜなら取り返しがつくからである。

 

取り返しがつくなら挫折ではない。

自分はベースにこの考え方があるのでたんに失敗したくらいでは挫折だと思えない。だから失敗から学んだことがあっても挫折経験から学んだことだと言えない。どうやって挫折から立ち直ったかなんて答えられるわけがない。だって挫折してないのだから。

 

きっと働いて仕事をきちんとしている人は、仕事が途中で駄目になってしまうことがあるのだろう。仕事にはルールがある。仕事をこなすための手段は限られている。

だが、社会で働いていない人間はちょっとやそっとでは挫折できない。むしろマニュアルもルールもきちんと決まっていないなかで生活している身分の人が、様々な手段を講じないうちから物事が失敗したと決めつけて挫折したことにするのはいかがなものだろうか。

 

自分はこう主張する。人事は就活で挫折経験を聞くな。

挫折はそうそう経験できない。取り返しのつく失敗を挫折ととらえて物事を諦めてしまう人間がほしいというのであればいい。そうでないのであれば挫折経験ではなく『失敗をどのように取り返すか』とか『つらかったことをどのように乗り越えましたか』とかを聞いた方がよい。

 

挫折経験を聞かれると毎回こんなことをつらつら考えてしまう。これも無内定である理由の一つなのであろう。